「ラビット・ドットコム」
第4話 稲葉くんの憂鬱

ラビット 第4話 稲葉くんの憂鬱(2)

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一瞬触れた指先がその確かな冷たさを感じ取ったのに、まだ稲葉は今見た物が信じられない。

だいたいそんな物が自分の手の中にあるなんて馬鹿げている。
でも、事実だ。さらにその手の中の塊は重量感を増して稲葉に存在をアピールしてくる。

対処法が全く頭に浮かんで来ず、ただとんでもない事になった事実だけを持て余し、稲葉はあたりを見回した。

どうしよう。警察か? いや、待て。僕は掃除のおばちゃんに見られてる。あれは見ようによっては“ブツの受け渡し現場”。よく刑事ドラマで見る奴だ。

『刑事さん、あの待ちぼうけの可愛そうなお兄さんが、やくざ風の男から受け取ってましたよ。ええ、しっかり』

ダメだ、あの男が見つからなかったら無実を証明するのも難しい。

冗談じゃない、最悪だ。こんなもの、持ってるだけでもう普通の生活に戻れる気がしない。

けれど、そうはいってもこんなもの、ここに置いて行くわけにもいかない。
心無い人間に拾われて悪用されたら大変だし、そうじゃなくても掃除のおばさんに見つかってしまう。

『あの待ちぼうけの可愛そうなお兄さんが置いていきましたよ。ええ、顔も覚えてます。指紋もきっと……』

更に更に最悪だ。
これを持って、人目につかないところに捨ててしまおうか。

否ちょっと待て、人目につかない場所なんてあるのか。街中防犯カメラだらけだ。そしてそんな無責任な事をしてもいいのだろうか。これは明らかに違法なもので、そっと葬り去っていいものではなくて……。

その時とっさに脳裏に宇佐美が浮かんだ。
そうだ宇佐美に相談しよう! 稲葉はバッグに手を伸ばし携帯を探す。

「……」 

忘れてたんだった。稲葉は再度のけぞり自分を呪った。

けれど凹んで居る場合ではない。
自宅に携帯を取りに帰るよりもラビット事務所の方が圧倒的に近い。よし行こう!

もしかして、もう少ししたら前園先生が慌てて走って来て、「稲葉先生、ごめんなさい! うっかり寝坊してしまって。本当にごめんなさい。ああ、でもこんなに遅れたのに待っててくれるだなんて、なんて優しいの稲葉先生!」と頬を赤らめてくれるかもしれない。

けれど断腸の思いで稲葉は決断した。まずはラビット事務所へ行くのだ。
こんな物持ってデートなんてあり得ない。前園先生に失礼だ。

稲葉はぐいと気持ちを立て直すと、すぐにタクシーを止めて事務所に向かった。
そして降りるときに気が付いた。

―――財布を忘れた……。

幸い小銭入れは持っていた。ワンメーターだったのでギリギリ支払はできたが、すっかり稲葉は立ち直れなくなっていた。

朝も小銭で電車に乗ったので今まで気がつかなかったのだ。
いったい自分は何処まで馬鹿なんだ。もう、なんの価値も無い。

けれど、ここで凹んでいても仕方がない。

稲葉はぐっと目の前のオフィスビルを仰いだ。
金が無いのは困るが、今自分は、それ以上に緊急事態なのだ。

なかなか浮上しない気持ちを引きずって、稲葉は13階のラビット事務所に上がっていく。
第2日曜日は営業日なので二人とも居るはずだった。

『あれ? デートじゃなかったの? シロちゃん』って、ぜったい李々子は言うな。
昨日得意げにデートのことなんて言うんじゃなかった。
ますます稲葉の心はしぼんでいく。

ドアを開けると事務所の中に二人の姿はなかった。けれど鍵はかかってなかったわけだから誰かいるに違いない。
電気だってついたままだ。

少し遠慮がちに、稲葉は宇佐美のプライベートルームへ続くドアをノックしてみた。しばらく待ってみたが反応はない。

少し気は咎めたが、レバーをそっと引いてみる。鍵は掛かっていない。やはり居るみたいだ。

「宇佐美さん。いらっしゃいますか~?」
何とも気の抜けた言葉を掛けながら、稲葉は部屋に足を踏み入れた。

入ってすぐは、事務所からワンクッション置くための2畳ほどの玄関スペース。
その奥に本当の自宅ドアがあった。

そのドアも鍵がかかっておらず、稲葉は再び声を掛けながら遠慮がちに開けてみた。
白とグレーを基調とした、シンプルで明るい、広めのリビングダイニングだった。

見渡すと奥に小綺麗なキッチンがある。その横にはバスルームに続くガラス張りのドア。
リビングの横にもう一つあるドアは寝室に続いていて、奥でバスルームに繋がっているのだろう。

とにかく片づいたきれいな部屋だった。天井まである書棚がすぐに目に飛び込む。
綺麗に分類された本が並ぶが、どれも医学書関連の専門書のようだった。稲葉は思わず息をのんだ。

―――医学の道からは遠ざかったって言ってなかったっけ……。


“コン……”

奥から微かなくぐもった音が響いた。そして人の声もする。
稲葉は我に返り、もう一度耳をすませてみる。

―――水音だ。シャワーの音。

そして聞こえて来たのは確かに李々子の声だった。
くすくすと笑いながら何かしゃべっている。
シャワールームから隣の寝室にいる誰かに話しかけているようだ。

いつもよりさらに艶っぽい、甘えるような可愛らしい声で。

「……あ」

稲葉は心臓がざわつくのを感じた。

そして頭の中に浮かんだイメージをすぐさま振り払う。

全身にまたしても嫌な汗。音を立てないようにジリジリ後ずさりする。

さっきは気付かなかったがテーブルの椅子の背に、李々子のバッグと、見覚えのある鮮やかなカーディガンが掛かっていた。

李々子が宇佐美の浴室の掃除をしているなんて考えられない。
じゃあ、シャワーを浴びているのだ。寝室に居るらしい宇佐美に話しかけながら。

稲葉はさらに足を忍ばせてドアの所まで行き、音をたてないようにそっと閉めた。事務所へつながるもう一つのドアも抜けて、そっと閉める。

そのまま、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく事務所をぬけて廊下に出た稲葉は、なんとかエレベーターに乗り込むが、もはやボタンを押すのも忘れて正面の鏡に映った自分をただ見つめていた。

何の罰ゲームか、手にしわくちゃの紙袋をさげて立たされている男が映っている。

―――いや、いや、いや、全然おかしくない。

うん、そうだ。僕が動揺する方がおかしいんだ。そうだよ。
ぜんぜん、おかしくない。
あの二人がそう言う関係だとしても。
ぜんぜん……。


急にガタンとエレベーターが動き出した。
誰かが階下で呼んだのだろう。体が降下していくのがわかる。

僕はどうしようかな。お金も携帯もない。家へも帰れない。

今日は喫茶鳳凰も定休日だ。手に持っている紙袋があざ笑うようにズシリと重い。
もういっそのこと、このエレベーターが地の底まで行ってくれたらいいのに……。

自分の不運とバカさ加減に打ちのめされて、稲葉は泣き出したい気分だった。


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~ Comment ~

NoTitle 

ありえねぇ~~
財布まで忘れておっおデートv-405
馬鹿ですか?
絶対に失敗だ、前園ちゃんに白けられる。
白ちゃんだからいいか!
それどころじゃなかったのだぁ。

重い荷物は心にズッシリだね。
二人の妖しい場面にも出くわしたようだし・・・
あーー哀れ白ちゃんどこへ行く。

ぴゆうさんへ 

はははは。いま気付きましたか(*^_^*)。シロちゃん、バカなんですw
でも、そこが可愛いんですが。

妖しげなシーンに出くわしましたね。
李々子にも、宇佐美にも、たとえようのない好意を持ってるシロちゃん。
そのショックは大きく。

さあ、どうするんでしょうね^^←イジワル

そして、あの重い荷物はいったい。
2転3転しますが、最期までよろしく~^^

誤解? 

李々子さんがこんなことしてるの、稲葉くんの考えてるのとはちがうんだと思うんですけど、だったらどういうこと? まだわかりませーん。
今回は稲葉くん、受難の巻ですね。

ケータイって、必要なときに限って忘れたりするものなんですよ。
うんうん、ということにしておきましょうね。

あかねさんへ 

そう、ほんとうに稲葉君、受難の回です。
まだまだ、受難は続くのです(笑

李々子は、シャワーなんか浴びて、誰となにするつもりでしょう。
誤解だったらいいんですけど^^

携帯って、忘れると命取りですよね(おおげさ?)
だから私は、ぜったい携帯だけは忘れないようにチェックします。
その割には、メールをなかなか返してくれないと、友人によく怒られるんですが^^;


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