「ラビット・ドットコム」
最終話 あの月が満ちるまでに

ラビット 最終話 あの月が満ちるまでに(9)

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「テロメアって聞いたことある?」

宇佐美は聞き逃しそうに小さな声で言った。
稲葉は咄嗟に脳内の記憶を探る。

「あ……、ええと、なんか聞いたことあるような気がしますが……」

そう言った後で稲葉は、自分はもしかしたらアニメのキャラクターと勘違いしてるんじゃないかと思い、そのまま黙った。

「分子生物学の分野でテロメアが定義されたのはもう何十年も前だけど、その分子機構と複製の仕組みについては、まだまだ研究が行われてる途中なんだ。
今でさえそうだから、12年前は詳細なデータが少なくてね。

マユカが生まれてすぐは俺も、まだ罪の意識を感じながらも研究室に残って彼女の健康管理を続けてた。マユカはとても健康体でね。その面では安心していたんだ。でも、そのテロメアの構造を知れば知るほど不安がつのって行った」

「いったい、何なんですか? それは」

「染色体の末端にあって、細胞分裂する時に染色体を保護する役割を担ってる部分の名称なんだ。発見当時は人間の寿命を決めてしまうDNAとも言われていた」

「寿命を?」

「正常な細胞が分裂する際、その染色体の末端にあるテロメアがDNAの摩耗を防ぐんだけど、細胞分裂の度にそのテロメアは短くなっていくんだ。完全にすり減ってしまった時点で細胞は傷つき、分裂できなくなる。
それが老化であり、細胞の……つまりは人の寿命と言ってもいいかもしれない。

つまり人間の細胞は分裂出来る大まかな回数をあらかじめ決められているんだ。老人の方が残された時間が少ないのは当然ということになる。そして……あの患者の女性は当時すでに38歳だった」

「つまり、その細胞をスタートとして生まれたマユカちゃんの細胞はすでに38歳だったってことですか?」

「理屈ではそういう事なんだ。外見的には分からなくても、細胞はちゃんと回数券をカウントしている。ただ、それがどれほど寿命を左右するのかは、今のところ全くデータが無い。当然なんだけどね……。前例がないんだから」

「マユカちゃんは、その事も含めて、……全部知っちゃったんですか?」
胃に鈍痛を覚えながら、稲葉は訊いた。

「……うん。出生の事も合わせて、死守しなきゃいけない秘密だったのに。
毎月病院でもない施設で健康チェックされる生活を10年以上も強いられたからね。きっと何か自分の体が人と違うんだって不安を抱いたんだろう。遺伝性の病気の予防のためだって、丁寧に言い聞かせて来たんだけど。
俺がしょっちゅう自宅に出入りしたのもいけなかったのかもしれない。
度々検査に連れ出す俺の事を、ただのホームドクターと思うのも無理があったんだろう。
ほんの2年前の事だよ。マユカはセキュリティを外して母親の隠していたデータやメールを盗み見してしまった」

「……」

「全部俺たちの不注意だ。……こんな罪、許せると思うか?」

相槌も、責める気持ちも沸いて来なかった。

静かに淡々としゃべる宇佐美の横顔から、稲葉が想像もできないほどの苦悩の日々が痛いほど伝わって来る。

「ラビット事務所の仕事の傍ら、宇佐美さんはマユカちゃんの健康管理をずっと続けていたんですね」

視点をずらした稲葉の質問に、少し間をあけて宇佐美は答えた。

「この仕事は時間調整ができてちょうどよかった。卯月さんは、俺の事情を全て知ったうえで、この事務所を任せてくれたんだ。
けどね……、仕事が軌道に乗り始めると、この仕事に費やす時間が多くなって、毎月の検査も1カ月置きになり、10歳を超えてからは2カ月置きになった。気持ちのどこかで逃げてたんだと思う。ただマユカの体調に変化が無い事を願うだけのこの行為に意味があるのか分からなくなって。
もしも予想できない変化が起こっていても、自分にはどうすることもできない。そうやって怯える自分に嫌気がさして。マユカと顔を合わせることも辛くなっていった」

「でもあなたはいつも何か調べてる。医学書の数だって半端じゃないし、常に新しい情報を求めてアンテナを張ってる。僕には逃げてるなんて思えない。あの子を救おうとしてきたんでしょ? ずっと」

「……分子生物学者の知人の力を借りて、とにかく新しい情報を確保している。テロメアを伸ばすテロメラーゼという酵素の研究も、あれからかなり進められていてね。もしかしたら僅かなら細胞の寿命を延ばせるかもしれない。
……でも、38年の時間を埋められるとは思えないし。そしてさらに前例のない症状がマユカを襲うかもしれない。
ほとんど、願う事しかできないんだ。……ほんと、馬鹿みたいだろ。
どんなに責められても仕方ないんだ。俺には、償う事もできない」

宇佐美はまたボンヤリと窓の外を見つめた。

「3カ月ごとのマユカの体調のチェックは、知人の医療施設でやってるんだけど、会うたびに彼女は言うんだ。私、大きくなったでしょ? って。
出生の秘密だけだってショックなのに、自分の命がどこまで届くかわからないんだ。こんな怖い事ないだろ? だけど、あの子はそう言うんだ」

静かにそう続けて、再び宇佐美は辛そうな目をする。
けれどそれと同時に、稲葉の中である感情がふと頭をもたげた。

「でも……でもそれは」

「あの子が年を重ねるのが怖い。いつまでも小さなままでいてくれたらと思う」

「なんで怖がってばかりいるの? 責めるとか、償うとか、何か違うと思うな」

「どうして?」

「あの子はそんなこと言いに来たんじゃないような気がするんです」

「……」

宇佐美が少し不思議そうな表情で稲葉を見つめた。

「大きくなったでしょ? っていうのは、あなたへの当てつけだと思ってますか?」

「違うのかな」

「大人っぽく見せようとしてるのは貴方を苦しめるためじゃないような気がするんです」

「……他になにが」

「あら、シロちゃんは女の子の気持ちがわかるのかな?」

いきなりドアの方から響いた李々子の声に、稲葉も宇佐美もハッと体を強張らせた。

「私が入ってきても気付かないなんて不用心ね。秘密が漏れちゃうわよ」

ほんの少し冷たく笑って李々子は自分のデスクにバッグをポンと置いた。

「李々子さん」

「バカな子よね。自分から秘密をばらしちゃうなんて。自分よりも諒が傷つくのがわからないのかしら」

今日の李々子はいつもの李々子じゃない。稲葉はそう思った。

「諒が怒らないからつけ上がるのよ」

いつもはこんなトゲのある言い方はしない。

「いいよ、李々子」

「良くないもん。ずっとこんな調子じゃない、あの子」

―――何を焦っているのだろう。李々子さんは。


「もうすぐなんでしょ? あの親子がカナダに行くの。それを言いに来てたんでしょ、あの二人は」

「えっ」

稲葉にはもちろん初耳だ。

昨日宇佐美に別れを告げに来た女性が、元宇佐美の研究仲間でマユカの母親だという事はピンと来ていたが、そう言う別れの瞬間だったとは思わなかった。

「そうだね」

「諒はもう充分苦しんだじゃない」

「……」

宇佐美は口を閉じたまま、静かな視線を李々子に向けた。

「夢もあきらめて、こんな事務所引き継いでくれて、その傍らでずっとあの子に心を痛めて、苦しんで」

李々子は次第に赤く潤み出した目で宇佐美の視線を受け止める。

「ついていく気じゃないわよね、二人に。違うよね? あなたはもう、自分には何もできないって言ったじゃない。元気でいることを祈るだけならどこに居たって同じでしょ。離れたっていいのよ。涼は充分すぎるほどあの子に尽くして来た。もう充分よ!」


…………ここを閉めるって言ったら、李々子怒るかな。

稲葉は不意に、宇佐美の言葉を思い出した。

李々子は宇佐美が語らずとも、この事を予感していたのかもしれない。自分一人でその不安を抱え込んでいたのかもしれない。

稲葉は涙を浮かべて少女のように声を振るわせている李々子に胸が痛くなった。

誰もが苦しんでいる。答えの見つからない、見えない呪縛に。

「あの子の体の事が心配なら現地の医療機関に手を回せばいいじゃない。あの二人だって、諒について来て欲しいなんて言ってないでしょ」

「だけど、責任がある」

「ここには責任はないの? ここはあなたの逃げ場だったの?」

「李々子、違うよ」

「あんな子、いなきゃよかった」

「……」

「あの子さえ生まれてこなかったら誰も苦しまずにすんだのに!」

「李々子!」

今まで聞いたことのない、憤りと悲しみの混ざった宇佐美の声だった。

けれどその憤りは李々子へ向けられたものではない。この状況を作り出した自分への怒りだと分かる悲痛な響きだ。だからこそ、居たたまれない。

李々子は強く正面から宇佐美を睨みつけた。

「大嫌い!」

そう言い捨てると李々子はぶつかるようにドアを開け、この現実から逃げるように部屋を飛び出して行った。


再び残された二人の男はただじっとドアを見つめて立つしか、術はなかった。
追いかけて行ったところで、どうなるものでもない。

「みんな、傷ついてる」

ぽつりと稲葉が言った。

「あなたのせいですよ。宇佐美さん」

ドアを見つめたままそう続ける稲葉を、宇佐美はゆっくり振り返った。

「うん……分かってる」

「分かってないですよ、ちっとも」

「……え?」

不意打ちを喰らったように目を見開いた宇佐美に、稲葉は真っ直ぐ向き直る。

「あなたの罪は13年前じゃない。今ですよ。昔の過ちに捕らわれすぎて大切な人たちの気持ちに気付いていない、今現在です」

「稲葉」

「マユカちゃん、あと数日で誕生日だって言ってましたよね。それってもしかして、次の満月、つまり明日じゃないんですか?」

「うん、……明日だけど」

「やっぱり。そうだと思った」

「?」
宇佐美は小さく首をかしげる。

「かぐや姫はね、残酷な女なんかじゃない。月へ帰る事は決めていたけど、やっぱり男たちの本心を確かめたかったんですよ」

「かぐや姫?」

宇佐美は更にきょとんとした表情を稲葉に向けた。

「あの子はあなたを困らせるためにあんな課題を出したんじゃない。大きくなったでしょ、っていうのもそうです。当てつけなんかじゃ絶対にない。宇佐美さんに分かってほしかったんだと思う。
自分はちゃんと普通に希望を持って生きてる。早く大きくなって、大人になって、そして人並みの時間を謳歌したい。できるんだ。きれいになって、恋だってして。なんだってできる、普通の女の子なんだ、って」

「……稲葉は、マユカに数回あっただけだろ? なんでそんなことが」

「僕だって伊達に女子高生を毎日相手にしてきた訳じゃないですから。マユカちゃんは意地っ張りだし口は悪いけど、過去の事を聞いた今は、いろいろ理解できる気がする。あの子は他の子よりも背伸びしてるだけの、普通の女の子ですよ」

「普通の」
「当たり前じゃないですか」

稲葉はぐっと首を突き出した。

「……で? どうなんです?」

「え?」

「ここまで言っても分からないんですか? 彼女のほしいモノ」

「マユカの欲しいもの……誕生日プレゼント……かな」

「そう、きっと今までにも誕生日にはいろいろプレゼントしたんだと思うけど、それとは違うんだと思う。宇佐美さんを見てて、分かった気がします。
たぶん、あなたは一度も“それ”を彼女にあげたことがないんじゃないですか?」

「……」

宇佐美は稲葉の目を見つめ、そして何かに気づいたように一度瞬きをした。

「そう。“それ”ですよ、きっとね。あなただって分からなかったわけじゃないでしょ?」

「……稲葉」 

「ちゃんと渡すことができますよね、宇佐美さん」

稲葉はにっこりと微笑み、まだ明るい窓の外に視線を移した。

「明日はとってもきれいな満月の夜になりますね」


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NoTitle 

>プレゼント

今日、コミケに行ってきました。

(*^艸^*)ぽっ。

……いろいろな意味で陳謝いたします。(爆)

NoTitle 

テロメアいうことはアポトーシスはさほど離れてもいなかったわけか(離れてるわい)

それにしても悲惨なマユカちゃん……

80まで生きてくれることを祈るばかりです(118歳かYO!)


#710はお気に障ったら消していただいてけっこうです……(汗)

ポール・ブリッツさんへ 

アポトーシスはしませんから・笑
そうですね。マユカが120歳まで生きる長寿体質ならばなんの問題もないです(そうなのか?)
ただし、細胞提供者は患者ですからね。
心配は尽きません。

うーーん。わからん。

なんですか?コミケ。マジでわからない。説明を求む。

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このコメントは管理人のみ閲覧できます

鍵コメKさんへ 

いつも読んでくださって本当にありがとうございます。
そうなんです。
終わってしまいます。(T_T)
でも、読者様に寂しいと言っていただけると、とっても嬉しいです。
最終話がお気に召していただけるか自信はないんですが、どうか最後までお付き合いください。(*^_^*)

管理人のみ閲覧できます 

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あえて…… 

いけないとは知りながら敢えて突っ込ませてもらいます。
「今回、長っ!」
嘘です。笑。(ネタです)。

そうか・・・・・・ついに終わりですね。
本当に寂しいです。
とても長い作品ですし、私は本当始まった時からリアルタイムで読んできましたからねえ・・・・・・。

楽しみにしていたテレビドラマが終わるようで……最後の最後まで愛おしいです。

ヒロハルさんへ 

ははは。
短かったり、長かったり、節操のない配分ですみません・笑
時間稼ぎに(おいおい)切りたかったんですが、どうしても切れなくて。
きっとどこで切られても大差はないんでしょうが、私のこだわりですね。

ヒロハルさんは、開始当時からお付き合いいただいて、本当にありがとうございました!
わたしも愛着があるだけに、とても寂しいです。
(次も長いですが・笑)どうぞ、最後まで読んでやってください。m(_ _)m

NoTitle 

それで「リトル・サイゴンの弾痕」のほうは読み終わったんですか?

だとしたら感想キボンヌ。

参考にしたいので。

ポール・ブリッツさんへ 

いや、それがですね、
「ウィンブルドン」のほうが面白そうだったので、そっちから読んでます・笑
すごく面白い!!
人物の描き方や会話がとってもセンスあっていいですね。
またもや自分の作品そっちのけで読んでます。
面白すぎるのも、困りものですね。

でもポールさんには、また、私の好きそうな(絶対勘違いしてるでしょ・笑)作品を紹介してもらいますからね。
(いつの間にか強制)

おっと! 

ちょっとご無沙汰してたらもう次回最終回ですね。

一度(・・・いや、何回も反芻してるけど)読んでいるお話なのに、ものすご~~~く終わっちゃうのが悲しいなぁ・・・。
私が読ませていただいたときには、これの後に「夢のつづき」を書いてくださったんでしたよね?
でも、今回は本当にこれが最後になっちゃうんでしょ?
うわ~~~~~ん!いやだぁぁぁぁぁ!もっと書いて~~~~!!!
(とダダをこねてみる)
なんかねぇぇぇぇ、すっごい諒が好きなの~~~。
陽も坂木も大好きなんだけど、諒はもっと現実味のある男性って感じで好き好き~~~!
李々子になりたいとマジで思っちゃうほど好き~。
もっと諒と李々子のやり取りを見たい~~~(あ、ごめんシロちゃんも)(笑)。

えっと、諒のこの決断をどう思ったか、今回書こうかと思ったけど、やっぱり最終話の後にします(^^;(先延ばし)

Re: limeさん 

勘違いも何も、「あのジョニーとマックに似た組み合わせの主人公二人が出てくるめちゃくちゃ面白い小説があったな。……なんだっけ?」と思い出したのでおすすめしているだけですけど(^^;)

あの本を読んでいるとロシア語の辞書がほしくなってきます。

しかし勘違いを疑うなんて、「友達がいがないやつだぞ、君は」(笑)

(……あ、まだそこまで読んでない?(^^;))

たしか内藤陳先生の不朽のブックガイド「読まずにしねるか!」(タイトルが正確でないのは、FC2の禁止ワードのバカのせいです)の大判の初版本には、「ウィンブル丼」の作り方が載っていたなあ。ひとつの丼を、ふたりで掛け合いしながら食べる、という(笑)

またなにか思い出したらおすすめしますね~。

ポール・ブリッツさんへ 

ははは。
それは申し訳なかったです。
まさに「友達がいのない奴・・・」です・笑(もうそこまで行ってます)

辞書片手に話をするツァラプキンがもう、かわいいのなんのって(*^_^*)

勘違いでもいいから(笑)あんなコンビを探してください。(すでに指示してる)
ジョニーとマック。あんな二人にはもう出会えないと思うんですが・・・。

秋沙さんへ 

そうなんです。
最終回です!
秋沙さんにはず~~っと応援していただいて、感謝の言葉もありません。
最終話はとくに結構加筆してありますから、稲葉君の気持ちがよくわかると思います。
もう一度読んでみてくださいね(*^_^*)

書いてるときは本当に李々子(相変わらず一発変換しない)を秋沙さんにイメージを置いて書いてた時もあって、なんだか申し訳なかったですが・笑
宇佐美を気に入ってもらえてうれしいです。
なぜか稲葉君ばかりが人気でしたから・笑
(私が贔屓してたからかな)

はあ。改めて最終話を再構築して思ったんですが・・・。
やっぱり彼らと離れたくないです・・。(´_`。)
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