「ラビット・ドットコム」
第4話 稲葉くんの憂鬱

ラビット 第4話 稲葉くんの憂鬱(3)

 ←『終末のフール』伊坂幸太郎 →パース的なイラスト
事務所から15分歩いた駅のコインロッカーの前で、稲葉はさりげなく辺りを見まわした。

―――とりあえず、この厄介な紙袋はコインロッカーに入れることにしよう。
対処は、後で考えればいい。とにかく1分だって手に持っていたくない。

家に帰る金は、もう少し時間をずらして事務所に行って、宇佐美さんに借りよう。

もう少しして……。

「……」

―――もう少しって、いつだ? 何分待ちだ。“あれ”って何分で終るんだ! 何分待てばいいんだ!?


ろくでもない妄想が脳裏を駆け巡り、稲葉は頭をブンと振った。

とにかくこの疫病神を手元から放そうと気持ちを立て直し、小銭入れを取り出すべく、バッグに手を突っ込んだ。

けれど掴み出したのは小銭入れではなく、入れっぱなしにしていた手帳だった。
ハッとして慌てて中を開くと「それ」はあった。

まだ救いの神は自分を見捨ててなかったらしい。
緊急連絡網としての職員の名簿。ちゃんと前園の自宅電話番号も入っている。
携帯の番号ではないのが少し不安だが。

そして、李々子の名刺もそこに挟まれていた。ちゃんと携帯番号も、李々子の丸っこい手書き文字で添えてある。

さっきまでの世界にひとりぼっち的な孤独感が、やんわりと薄らいでいった。

稲葉は慌てて小銭を確認する。
財布に入っていたのは100円玉2枚と8円。コインロッカーは200円だ。

電話をとるか、ロッカーをとるか。

稲葉は紙袋を掴むと走り出した。駅構内の公衆電話へ。

この緑の電話を使うのは何年ぶりだろう。
少し震える指で100円玉を入れ、連絡網に書いてある前園の自宅番号を押す。

前園先生は自宅にいるだろうか。
どうせなら思いっきり寝過ごしてて、まだ自宅に居てくれたらいいのに……。

コールが続く。留守電に切り替わらないでくれ。祈る思いで稲葉は受話器を握りしめた。

コールが途切れた。
カチャリとうれしい反応。

「……はい?」
前園の声だった。

「ま、前園先生、ごめんなさい、稲葉です!」
安堵と緊張で声が上ずる。

「稲葉先生? ああ、よかった! 何度携帯にお電話しても繋がらなくて」
「すみません、携帯を家に忘れてしまって! 本当にすいません」
「いえ、私のほうこそ映画に行けなくなってしまってごめんなさい。実は私の知人がバイクで事故に遭ってしまって、さっきまで病院に行ってたんです」
「えーっ! それは大変じゃないですか! 大丈夫なんですか?」
「はい、軽い打撲と擦り傷程度だと思うんですが、一応検査入院が必要らしくて……。だから今、入院に必要な物を取りに自宅に戻ったんです。本当にタイミングがよかった」
「必要な物を取りにって、そんな親しいお知り合いなんですか?」
「はい、……あの、実はこの冬に一緒になろうと約束した人で……。あの、まだ学校の方には内緒にしてくださいね、稲葉先生」

「え……、は、……はい。……ええ、……もちろんです」

「あ、そうだ、ニュース見ました? 今日待ち合わせた場所の近くで朝、発砲事件があったんですって。怖いですねえ」

「は……。はい。そうですね。怖いです」

「あ、ごめんなさい、私もう行かなきゃ。本当にごめんなさいね」

「いえ……、はい。気をつけて」

プッという悲しい音を残して電話は切れた。

張りつめていた何もかもが稲葉の中でプチンと切れた。思考回路も停止してしまって、頭の中が空っぽだ。

一瞬現れた救いの神は舌を出してまたどこかに消えてしまった。

稲葉に残されたのは108円と、物騒な紙袋と、李々子の名刺だけだった。

稲葉は一つ大きく呼吸した。

生気のない動きで李々子の名刺を手に取り、百円玉をゆっくりその緑の投入口に滑り込ませる。

名刺を見ながらそこに書かれた携帯の番号を押す。李々子はきっと出ないだろう。それか留守電。

―――なぜなら今、取り込み中だから。

留守電だったら何て入れよう。バカだなあ僕は。なんで電話かけたんだろう。100円も消えちゃうのに。

ぼんやりそんなことを考えながら受話器を耳に当てる。軽やかなコール音。

やはり留守電に切り替わる前に切ってしまおう。そうしよう。100円は貴重だ。
そう思い直し、受話器を耳から離そうとした時だった。

ガチャンとコインの落ちる音とともに李々子の声が聞こえてきた。

「は~い、どなた?」

「あ………………、あの」

「あれえ? シロちゃん? どうしたの? どこから?」

不意をつかれたのと安心したのとで、稲葉はしどろもどろになった。
そして不覚にもじんわり目頭が熱くなってきた。涙で視界がぼやける。

なぜだか稲葉にもわからない。いつもの艶っぽい鼻にかかった甘い声。
やけに口調が優しかったせいだろうか。

「け……携帯と財布、家に忘れちゃって……。今、公衆電話からなんです」

「え~~? かわいそうに! でも今日デートだったんでしょ?」

「はは……それはちょっと中止になっちゃって……」

別の涙も滲んできた。

「そうなの? 今どこ? 近くならいらっしゃいよ」

「い……いいんですか?」

「ん? 何で? いいにきまってるでしょ? 変な子ね」

「そうなんです。変なんです。ぼく、今日」

電話の向こうでクスクスと笑う可愛いらしい声。

「じゃあ待ってるからね。すぐ来るのよ。気をつけてね」

子どもに言うように優しく言ったあと、李々子のほうから電話は切れた。

ほんの少し体に血が巡って来たような安堵を感じ、稲葉はひとつ深呼吸する。

救いの神はまだそこにいるんだろうか。それともまたすり抜けて消えていくんだろうか。

結局手元に残った紙袋を手に持つと、再び稲葉は事務所に向かって歩き出した。
紙袋は相変わらず重かったが、さほど気にならなくなった。


“発砲事件があったそうね”

え?

急に前園の言葉が蘇ってきた。

え?

そう言えば今日はやけにパトカーや警官の姿をよく見かけた。
サイレンを鳴らすでもなく、わりと静だったので何かの取り締まり月間なのだと思っていた。

―――まさか……。発砲事件だって? そんな、ドラマじゃあるまいし。

思考回路にフタをして、また稲葉はズンズン歩き出した。

今日は何も考えないでおこう。何となく自分を守るにはそれしかないような気がしていた。

―――今日の事は全て夢。悪い夢なんだ。


ラビット事務所のビルの入り口に着くまで稲葉はずっと数を数えていた。何も余計なことを考えないように。

381、382、383、384……

事務所ビルの入り口。385……

パトロール中らしい二人の警察官のひとりと目が合った。

……386、387、388……。 

心拍数と共に数えるスピードも速くなっていく。

警官がじっと稲葉の顔を見ている。

“気のせい 気のせい”
慌てて目をそらした稲葉にその警官は何かを感じ取ったのか、ゆっくり近づいてきた。

やめてくれ……。来るな……。頼むから!

心拍数はさらに上昇。視線は定まらず、膝もガクガクしてきた。明らかに挙動不審な男だ。

だめだ、話しかけられたら、もうぼくは終わりだ!

尚もゆっくり警察官は稲葉のほうに歩いてくる。
逃げ出してしまおうか。いや、それこそ取り返しのつかないことになる。

―――ああ、神様。もう勘弁して。夢ならここまでにしてください。

稲葉はぎゅっと目を閉じた。


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~ Comment ~

ヤバイっすやん! 

い、稲葉君!大ピンチ!
いいとろころで切りましたね~、これ。

続きが気になる~!

やばいんです・笑 

ヒロハルさん、こんにちは。

警察官って、何もしてなくても、目が合うと反らしてしまいません?笑
稲葉くんのような状況だったら、ぜったい腰が引けますよね。

さあ、救いの神は現れるんでしょうか。

ご訪問、ありがとうございます!

NoTitle 

ひゃははは
白ちゃん、天国からイヤイヤ元々天国じゃなかったのか!
可哀想、泣きっ面に蜂どころか爆弾が落ちたような・・・
いい男なのに・・・
その上、キョドるし・・・
なんて分かり易い男なんだぁ~~
浮気は出来んな。
v-391

ぴゆうさんへ 

そう、この日は10年分の悲劇が一度に起こったような日でww
天国に見えた「それ」は、天国ではなく・・・ww

かわいそうに。
まだまだ続きます、シロちゃんの不運。
悪い子じゃないのにねえ。ごめんね、シロちゃん。
ええ、きっと浮気はできません。
いや、彼女もできないでしょうwww
作らせませんね、きっと、作者が←鬼
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